開運!南無妙法蓮華経!妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五。 お経と解説

南無妙法蓮華経

妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五

世尊妙相具せそんみょうそうぐ 我今重門彼がこんじゅうもんぴ 仏子何因縁ぶっしがいんねん 名為観世音みょういかんぜおん 具足妙相尊ぐそくみょうそうそん 偈答無尽意げとうむじんに 汝聴観音行にょちょうかんのんぎょう 

善応諸方所ぜんのうしょほうしょ 弘誓深如海ぐぜいじんにょかい 歴劫不思議りゃっこうふしぎ 侍多千億仏じたせんのくぶつ 発大清浄願ほつだいしょうじょうがん 我意汝略説がいにょりゃくせつ 聞名及見身もんみょうぎつけんしん

心念不空過しんねんふくうか 能滅諸有苦のうめつしょうく 仮使興害意けしこうがいい 推落大火坑すいらくだいかきょう 念彼観音力ねんぴかんのんりき 火坑変成池かきょうへんじょうち 或漂流巨海わくひょうるこかい

龍魚諸鬼難りゅうごしょきなん 念彼観音力ねんぴかんのんりき 波浪不能没はろうふのうもつ 或在須弥峯わくざいしゅみぶ 為人所推堕いにんしょすいだ 念彼観音力ねんぴかんのんりき 如日虚空住にょにちこくうじゅう

或被悪人逐わくひあくにんちく 堕落金剛山だらくこんごうせん 念彼観音力ねんぴかんのんりき 不能損一毛ふのうそんいちもう 或値怨賊繞わくちおんぞくにょう 各執刀加害かくしゅうとうかがい 念彼観音力ねんぴかんのんりき

減即起慈心げんそっきじしん 或遭王難苦わくそうおうなんく 臨刑欲寿終りんぎょうよくじゅじゅう 念彼観音力ねんぴかんのんりき 刀尋段段壊とうじんだんだんね 或囚禁枷鎖わくしゅうきんかさ 手足被杻械しゅうそくひちゅうかい

念彼観音力ねんぴかんのんりき 釈然得解脱しゃくねんとくげだつ 呪詛諸毒薬しゅそしょどくやく 所欲害身者しょよくがいしんしゃ 念彼観音力ねんぴかんのんりき 還著於本人げんじゃくおほんにん 或遇悪羅刹わくぐうあくらせつ

毒龍諸鬼等どくりゅうしょきとう 念彼観音力ねんぴかんのんりき 時悉不敢害じしつぷかんがい 若悪獣囲繞にゃくあくじゅういにょう 利牙爪可怖りげそうかふ 念彼観音力ねんぴかんのんりき 疾走無辺方しっそうむへんぼう

蚖蛇及蝮蠍がんじゃぎゅうふっかつ 気毒煙火燃けどくえんかねん 念彼観音力ねんぴかんのんりき 尋声自回去じんしょうじえこ 雲雷鼓掣電うんらいくせいでん 降雹樹大雨ごうばくじゅだいう 念彼観音力ねんぴかんのんりき

応時得消散おうじとくしょうさん 衆生被困厄しゅうじょうひこんやく 無量苦逼身むりょうくひっしん 観音妙智力かんぜおんみょうちりき 能救世間苦のうくせけんく 具足神通力ぐそくじんづうりき 広修智方便こうしゅちほうべん

十方諸国土じっぽうしょこくど 無刹不現身むせっぷげんしん 種種諸悪趣しゅじゅしょあくしゅ 地獄鬼畜生じごっきちくしょう 生老病死苦しょうろうびょうしく 以漸悉令滅いぜんしつりょうめつ 真観清浄観しんかんしょうじょうかん

広大智慧観こうだいちえかん 悲観及慈観ひかんぎゅうじかん 常願常瞻仰じょうがんじょうせんごう 無垢清浄光むくしょうじょうこう 慧日破諸闇えにちはしょあん 能伏災風火のうくせけんく 普明照世間ふみょうしょうせけん

悲体戒雷震ひたいかいらいしん 慈意妙大雲じいみょうだいうん 樹甘露法雨じゅかんろほうう 滅除煩悩燄めつじょぼんのうえん 諍訟経官処じょうしょうきょうかんじょ 怖畏軍陣中ふいぐんじんちゅう 念彼観音力ねんぴかんのんりき

衆怨悉退散しゅおんしつたいさん 妙音観世音みょうおんかんぜおん 梵音海潮音ぼんのんかいちょうおん 勝彼世間音しょうひせけんのん 是故須常念ぜこしょうじょうねん 念念勿生疑ねんねんもつしょうぎ 観世音浄聖かんぜおんじょうしょう

於苦悩死厄おくのうしやく 能為作依怙のういさえこ 具一切功徳ぐいっさいくどく 慈眼視衆生じげんじしゅうじょう 福聚海無量ふくじゅかいむりょう 是故応頂礼ぜこおうちょうらい 爾時持地菩薩にじじぢぼさつ

即従座起そくじゅうざき 前白仏言ぜんびゃくぶつごん 世尊せそん 若有衆生にゃくしゅうじょう 聞是観世音菩薩品もんぜかんぜおんぼさつぽん 自在之業ざざいしごう 普門示現ふもんじげん 神通力者じんづうりきしゃ

当地是人とうちぜにん 功徳不少くどくふしょう 仏説是普門品時ぶつせつぜふもんぽんじ 衆中八万四千衆生しゅうちゅうはちまんしせんしゅうじょう 皆発無等等かいほつむとうとう 阿耨多羅三藐三菩薩心あのくたらさんみゃくさんぼだいしん

解説

その時、尽きることのない救道の意志を持つという菩薩である無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が座から

立ち上がり、体にまとっているきれの右の肩の方をはずして右の肩と腕をあらわにすることで尊敬とま

ごころを表し、合唱しながらお釈迦様におうかがいしました。

「お釈迦様。観世音菩薩は、どういうわけで観世音菩薩という名前がつけられているのでございましょ

うか。」

それに対して、お釈迦様がお答えになりました。

「それはこういうわけです。世の中の数え切れないほど沢山いる人々が、いろいろな苦しい目にあって

いる時に、この観世音菩薩の功徳の偉大さを聞き知って、一心になってその名を称えれば、観世音菩薩

はすぐにその声を聞き取り、救いにやって来て苦悩から逃れさせてくださいます。

つまり、世の音を観ずる(知る、察する)という意味で、観世音と名付けられたのです。」

「もし、観世音菩薩の名を称えれば、燃えさかる大火の真ん中に飛び込んで行っても、決して火はその

人を焼くことはできないでしょう。それは、この菩薩の持つ自由自在な力のおかげなのです。あるいは

洪水に押し流されていたり、大海を漂流していたりしても、この観世音菩薩の名を称えれば、ひとりで

に浅い所に流され着くことができるでしょう。あるいは、たくさんの人々が、七宝として貴ばれている

金、銀、瑠璃という青い宝石、シャコという美しい大きな貝、珊瑚、琥珀、真珠などの宝物を買って来

るといって、広い海に乗り出して行ったとしましょう。その時、急にあたりが真っ暗になってひどい暴

風が吹いて来て、船が押し流されてしまい、羅刹という人を食べる悪鬼の住んでいる島へ漂着したとし

ます。そのような危機に際しても、もし乗り組んでいる人々の中の一人でも、観世音菩薩の名を称える

ならば、誰も羅刹に食べられずに済み、その危機から逃れることができましょう。こういうわけで、世

の音をよく観ずると言う意味の名がつけられているのです。あるいは、ある人が他の人に刀で切られた

り棒で打たれたりして怪我をさせられそうになった場合に、観世音菩薩の名を称えるならば、相手の振

り上げた刀でも棒でもバラバラに折れてしまい、怪我をしないで済みましょう。あるいは、世界中にい

っぱいいる夜叉と羅刹の悪鬼どもが大挙して、ある人を悩まそうとしてやって来ても、その人が観世音

菩薩の名を称えるのを聞いたならば、夜叉も羅刹も邪悪な意思を持ってその人に向かうことはできなく

なるでしょう。ましてや、実際に害を加えることなど、とうていできないのです。あるいは、ある人が

罪をおかし、または無実の罪によって、手かせ・首かせをはめられ、牢獄に鎖でつながれた状態となっ

たとしても、その人が観世音菩薩の名を称えれば、身を拘束しているそれらの物はことごとくバラバラ

に壊れ、たちまち自由の身となることができましょう。あるいは、どこまで行っても凶悪な山賊どもが

横行している国があるとしましょう。そして一人の大商人が他の商人を大勢連れて、りっぱな宝物を買

い込んでよその土地から帰る途中で、そうでなくても山中の険しい道である上に、山賊に最も襲われや

すい危険な場所にさしかかったとしましょう。その時、その中の一人が一同に向かって、『皆さん、恐

れることはありません。皆さんが一心になって、観世音菩薩の名を称えてご覧なさい。観世音菩薩は人

怖いものを無くしてくださる方ですから、お名前を称えさえしたら、山賊に襲われる心配など無くなり

ます。』と言いますと、全員がその言葉に従って声を合わせて一心に『南無観世音菩薩』と称えたとし

ましょう。そうすれば、一同は必ず難を逃れることができるのであります。無尽意よ。観世音菩薩の力

はこんなに想像できないくらい偉大なものなのです。」

「もし、性欲のために悩んでいる人があったならば、いつも観世音菩薩を心の中に思い浮かべて、敬う

ように心がけていれば、ひとりでにその欲から心が離れて、悩むことがなくなるでありましょう。

あるいは、何かにつけて怒りを覚え、そのために自分自身を苦しめている人があったならば、いつも観

世音菩薩を心の中に思い浮かべて、敬うようにこころがけていれば、腹が立たなくなりましょう。

あるいは、愚かしい考えにとらわれている人があったならば、いつも観世音菩薩を心の中に思い浮かべ

て、敬うように心がけていれば、必ずその愚かしさから脱け出すことができましょう。

 無尽意よ。観世音菩薩はこのようにあらたかな力があり、人々に豊かなご利益を与えられるのです。

それだから人は皆、しょっちゅう観世音菩薩を心に思い浮かべるようにしなければなりません。」

「もしも、女人がいて、たとえば男の子が欲しいならば、観世音菩薩を礼拝し供養したならば、福徳

と智慧のある男の子を生むであろう。

もしも、女の子が欲しいならば、観世音菩薩を礼拝し供養したならば、顔立ちなどが美しく整っている

姿をしていて、前世に自らを高め地を感化する精神的能力を得るための修行をしたために、多くの人々

に愛され尊敬されるような女の子を生むであろう。

無尽意よ、観世音菩薩には、このような力がる。

もしも、生命のあるものすべてが、観世音菩薩の名を銘記して忘れないようにするべきである。

無尽意よ、もしある人がいて、六十ニ億のガンジス河の砂の数に等しい悟りを求める修行者の名を銘記

して忘れず、また、命が尽きるまで、飲食・衣服・臥具・医薬を供養したとする。お前はどう思うか。

この仏法に帰依した男子や、仏法に帰依した女子、現世や来世に幸福をもたらす事になる善行は、多い

か少ないか。」

無尽意は言った。「とても多いでしょう。世尊。」

仏は言われた。

「もしも、またある人が、観世音菩薩の名を銘記して忘れず、あるいはほんのひと時でも礼拝し、供養

したとする。この二人の福徳は、共に等しく、異なることがない。百千万憶劫経っても極めつくす事は

できない。無尽意よ、観世音菩薩の名号を銘記して忘れないならば、このような無量無辺の福徳の利を

得るだろう。」

無尽意菩薩は、仏に向かて言った。

「世尊、観世音菩置き薩は、どのようにしてこの娑婆世界にさまよい、どの様にして生命のあるものす

べてに教えを説かれるのでしょうか。衆生を導くのに臨機応変の手だてを用いる智慧の働きは、その事

にどのように用いられたでしょうか。」

仏は、無尽意菩薩にお告げになった。

「仏法に帰依した男子よ、もしも、国土に生命のあるものすべてがいて、仏の身によって悟らせて彼岸

に渡すべき者には、観世音菩薩は、すぐに仏の身を現わして、彼らの為に教えを説き、独力で悟りなが

ら他人に説かない小乗の聖者の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに独力で悟りなが

ら他人に説かない小乗の聖者の身を現わして、彼らの為に教えを説き、自己の悟りのみを求める修行者

の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに自己の悟りの身を求める修行者の身を現わし

て、彼らの為に身を現わして、彼らの為に教えを説き、梵天の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい

者には、すぐに梵天の身を現わして、彼らの為に教えを説き、帝釈天の身によって悟らせて彼岸に渡す

のがよい者には、すぐに帝釈天の身を現わして、彼らの為に教えを説き、自在天の身によって悟らせて

彼岸に渡すのがよい者には、すぐに自在天の身を現わして、彼らの為に教えを説き、大自在天の身によ

って悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに大自在天の身を現わして、彼らの為に教えを説き、天

大将軍の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに天大将軍の身を現わして、彼らの為に

教えを説き、毘沙門天の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよいものには、すぐに毘沙門天の身を現わ

して、彼らの為に教えを説き、小王の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに小王の身

を現わして、彼らの為に教えを説き、長者の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに長

者の身を通して、彼らの為に教えを説き、在家男子の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、

すぐに在家男子の身を現わして、彼らの為に教えを説き、宰相や官史の身によって悟らせて彼岸に渡す

のが良い者には、すぐに宰相や官史の身を現わして、彼らの為に教えを説き、娑羅門の身によって悟ら

せて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに娑羅門の身を現わして、彼らの為に教えを説き、出家男子・出

家女子・在家信士・在家女子の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに出家男子・出家

女子・在家信士・在家女子の身を現わして、彼らの為に教えを説き、長者・在家男子・宰相や官史・娑

羅門の妻の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに須磨の身を現わして、彼らの為に教

えを説き、童子・童女の身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者にはすぐに童子・童女の身を現わし

て、彼らの為に教えを説き、天人・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人間・人

間でないものなどの身によって悟らせて彼岸に渡すのがよい者には、すぐに皆これを現わして、彼らの

為に教えを説き、執金剛神の身を現わして、彼らの為に教えを説くのだ。

無尽意よ、この観世音菩薩は、この様な現世や来世に幸福をもたらすことになる善行を成就して、種々

の形となって、諸々の国土に行って教化し、生命のあるものすべてを迷いの世界から脱出させるのだ。

それ故に、お前たちは、一心に観世音菩薩を供養せよ。この観世音菩薩は、怖れや危急の難の中に於い

て、恐れることのない自信を巧みに施す。この故に、この娑婆世界では、皆これを名付けて、衆生の恐

れの心を取り去って救うものと呼ぶのだ。」

無尽意菩薩は、仏に言った。

「世尊、私は今、観世音菩薩を供養いたします。」

そこで、頸にかけた多くの宝玉を連ねた瓔珞の、百千両金の価値があるものを解いてこれを与え、こう言った。

「情け深い者よ、この法施の瓔珞をお受け取りください。」

しかし、観世音菩薩は、これを受けなかった。

無尽意菩薩は、また観世音菩薩にこう言った。

「情け深い者よ、我らを憐れんで、この瓔珞をお受けください。」

その時、仏は、観世音菩薩にお告げになった。

「当然、この無尽意菩薩と、出家者と在家者の男女、天人・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・人間・人間でないものなど憐れんで、この瓔珞を受けるべきである。」

即時に観世音菩薩は、諸々の出家者や在家者の男女と、天人・龍・人間・人間でないものなどを憐れん

で、その瓔珞を受け、二つに分けて、一つは釈迦族の聖者の如来に奉り、一つは多宝仏の塔に奉った。

仏は無尽意菩薩にお告げになった。

「無尽意よ、観世音菩薩には、このような自在な超人的な能力があって、娑婆世界の諸所に出かけて人

々を教化するのだ。」

その時に、無尽意菩薩は、詩によって問うて言った。

「世尊は並はずれてすばらしい相を備えていらっしゃいます。私は今重ねてこれを問いたてまつりま

す。その仏の弟子を、何の因縁によって、観世音と名づけるのですか。」

不思議なほどに優れている姿を備えた世尊は、詩によって無尽意に答えた。

「観世音菩薩のごとくに生きようと志す者達が、様々な場所で人々の願いに応じている姿をよく見聞し

なさい。菩薩として生きようとする誓いは海のように深いもので、とても想像の及ぶところではない。

数え切れないほどの時間を優れた人物の傍らについて学び、影響を受け、そうして菩薩として生きよう

として生きようとする願いを起こしたのだろう。その尊い生き方を讃え、そのような人々を観世音と呼

んでいるのである。私はあなたの為にもう一度、菩薩としての生き方を説く。菩薩として生きる人々の

名を聞きなさい。 その姿をよく見なさい。 心に想っていつも忘れないようにしなさい。 そうすればも

ろもろの苦悩は消滅するだろう。たとえ、人に善意を持たれて、奈落の底に落とされるようなひどい目

に遭っても、菩薩として生きることを忘れなければ、怒りの炎は燃え盛ることなく心は穏やかでいられ

る。欲の心が出て欲の海に漂流してしまい、様々な誘惑に負けそうになっても、菩薩として生きること

を忘れなければ、欲に溺れずにすむ。人の裏切りなどに遭い、山から落とされるようなショックを受け

ることがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、太陽が空に浮かんでいるがごとくに悠々と

していられる。悪い心が湧きおこって道を踏み外すことがあっても、菩薩として生きることを忘れなけ

れば、怪我をすることなく仏の道に戻ってくることができる。

敵意をもたれ、妬みや恨みを買って危害を加えられるようなことがあったとしても、菩薩として生きる

ことを忘れなければ、やがて相手の心にも慈しみの想いが生じてくる。

暴走した権力によって不当な処罰を受けることがあっても、菩薩として生きることを忘れなければ、そ

うした権力はやがて滅びていく。 制限を受けて自由に生きることができないときもある。 それでも

薩として生きることを忘れなければ、心は束縛されずに自由でいられる。

誹謗中傷、世の中には悪い言葉を使う人もおり、そうした言葉が自分の身にふりかかるときもある。

それでも菩薩として生きることを忘れなければ、言葉を発した本人たちのもとへと悪言は還っていき、

やがて過ちに気付くだろう。

生きていればいろいろな人と出会う。もちろん心優しい人ばかりではない。どのような時も菩薩として

生きることを忘れなければ、あなたを害しようと思う人はいない。

自分を害するのは外側からだけではない。自らの内側、自分自身の煩悩によって自分が苦しむというこ

とも往々にしてある。そのような時も菩薩として生きることを忘れなければ、煩悩はどこかへ走り去

っていってしまうだろう。

身を滅ぼすもの、毒となるもの、そうしたものが近づくときもある。

けれども菩薩として生きることを忘れなければ、そのようなものは自ずと去っていく。

人生には雨の日もある。雷の日もある。雹が降るような日もある。

心が折れてしまいそうな日々があっても、ただ自分が菩薩として生きることを忘れなければ、苦悩はや

がて消えていく。

生きていくには多くの困難がともなう。苦悩がある。思い通りにならないことばかりである。

それでも勇気を持って菩薩として生きることさえ忘れなければ、その生き方は人々を苦悩から救い、自

分をも救ってくれるだろう。

菩薩として生きる人は、智慧によって正しい道を示し、その道へ人々を向かわせる優れた手法を用い

る。そうした、菩薩ごとき人々が、この世界のあらゆる場所に存在する。

感謝の想いを抱いたなら、相手は菩薩だということである。

欲や執着といった煩悩によって、人々はストレスをかかえ苦悩する。

老いや病や死といった煩悩も、老いたくない、健康でいたい、死にたくないという思いによって苦悩と

なる。望んだようになってほしいという願い、その願いの根本にあるのは欲や執着であり、菩薩はその

真理を説くことによって人々から苦を取り除く。

真理とは何か。清浄な心とは何か。広く世界の真実を見抜く智慧とは何か。人の苦を取り除き、楽を与

える力とは何か。これらの総体である菩薩を常に忘れることなく念じ、菩薩の生き方を尊びなさい。

菩薩のごとく浄らかに生きる人の姿は輝いており、その光は人々のなかにある闇を照らし、誤った道へ

進むことを防ぎ、世界を善いものへと変えていく力を秘めている。

人々から苦を取り除き、薬を与える菩薩としての生き方。

その生き方はあたかも甘い仏法の雨を降らせることで、人々の煩悩の炎を静めていくかのようである。

言い争いは絶えない。優劣という物差しから離れることは難しい。それでも菩薩として生きることを忘

れなければ、人々から醜い心は退いていく。

菩薩の声は優れたる音楽のようである。

その音楽によって人々の苦悩は取り除かれ、安らぎが与えられる。

だからこそ菩薩として生きることの尊さを忘れてはならない。

自分に具わる菩薩の力を疑ってはいけない。

自分にそのような力はないと考えてはいけない。

誰の身にも菩薩として生きるだけの力が宿っていることを忘れてはいけない。

菩薩として生きることで、人は苦悩や恐れから自由になることができるのだから。

菩薩として生きる人には、あらゆる功徳が具わっている。

その功徳の眼差しで人々に接したなら、そこには海のように広く深い幸福が生まれる。

だから、菩薩として生きる人に出会ったなら、その人を尊びなさい。これが菩薩として生きていく教え

である。」

お釈迦様が話を終えると、無尽意菩薩は立ち上がって進み出て、お釈迦様に申し上げた。

「お釈迦様、今あなたが説かれた菩薩としての素晴らしい生き方を、もし人々が耳にしたならその功徳

計りものがあるでしょう知れないものがあることでしょう。」

その場に居合わせた人々は、お釈迦様の話を聴いて、これ以上ないほど尊い心を起こしたのだった。

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