あらゆる経典の中で、法華経は「最上王経」とも呼ばれ、いろいろなお経のなかでも最も優れているといわれています。
それで、数年前から法華経の内容を勉強してきましたが、日常会話などにもよく使用されているような用語がたくさん出てきて、とても日本社会に密着していることが分かりました。
例えば「方便」だとか、「精進」「瓔珞」「三昧」など法華経の中にはよく出てきます。
さて、そんな法華経を勉強している私ですがとにかく難解で理解できません。本当にそんなすごい教えなのでしょうか。
ということで、日本の偉人たちがどう評していたのか知りたくなりました。
勉強のモチベーションを上げるためにも、調べたいと思います。
斎藤一人さん
南無妙法蓮華経とは
私は信じます。蓮の花の教えを。世界に通用する教え。
どんな人の心も、妬み、嫉みといったそういう中から出てきても、やがてそこには白い綺麗な蓮の花が咲く。
お釈迦様が蓮の花に乗ってると思ってるでしょう?蓮の中から、心の奥から、誰でも神の心を持っていてそれがパッと出てきて、だからみんなの心には観音様やお釈迦様がいてパット綺麗な花が咲く。
あのドロドロとした汚いところから出てくる。
日蓮大聖人
法華経は釈迦牟尼仏なり 法華経を信ぜざる人の前には 釈迦牟尼仏 入滅を取り 此の経を信ずる者の前には
滅後たりといえども 仏 世に在すなり
(現代語訳)
法華経を信じぬ人の前に 釈尊は入滅したまま現れず
法華経を信ずる人の前には たとえ滅後でも仏の在世と同じく いつも現れるのであります
聖徳太子
それ妙法蓮華経とは、けだし惣じて万善を取りて合して一因となすの豊田、七百の近寿転じて長遠と成るの神樂なり
(現代語訳)
妙法蓮華経の教えというのは、大量の善を取り出して、それを一つにしたものだ。そして神の薬でもある。
天台宗 宗祖 伝教大師 最澄
最澄の教え「心を一乗に帰すべし」
最澄の遺言「私は幾たびもこの国に生まれかわって、仏教を学び、一乗の教えを弘めようと思う」
法華経には「一乗」と「三乗」の区別がある。大乗の教えだけが人を救い、小乗では救われないというのが「三乗」、すべては救われるというのが「一乗」である。最澄の考え方は「法華一乗」といい、三乗、つまりそれぞれ違っていても、最終的には一つの教えによってすべては救われるという。そこから、生きとし生けるものみな仏の本質を持っているという「一切衆生悉有仏性」、さらには有情も非情もみな成仏できるという「草木成仏」の考え方へと広がっていく。
真言宗 宗祖 弘法大師 空海
今此の経は法王の明珠、大士の安車なり。諸乗の異轍を泯し、諸川の異味を混じ、彼の芳器の着を破して、この平等の慧に帰す。
妙法蓮華経とは、これすなわち自性の秘名を表し、浄心の密号を示すやその旨を得たり。古来の伝法は秘して伝へず、今宣伝する所の真言即ち是なり。
(現代語訳)
この経は宝の玉である。人々が安心して過ごせる、乗れる車である。非常に功徳の大きいお経である。皆に教える真言は、まさに妙法蓮華経に即しているのだ。
浄土宗 宗祖 法然上人
いずれの経論も釈尊のときおき給へる経教なり。しかれば法華涅槃等の大乗経を修行して、仏になるになにの難きことかあらん。
それにとりてことに法華経は、三世の諸仏もこの経によりて仏になり、十方の如来もこの経によりて正覚をなり給う。
しかるに法華経などをよみたてまつらんになにの不足かあらん。
かやうに申す日はもことにさるべき事なれども、われらが器量はこの教におよばざるなり。
その故は、法華には菩薩声聞を機とする故に、われらが凡夫はかなうべからずと思うべき也。
(現代語訳)
すべてのお経は、お釈迦様が説かれた教えで間違いないのだけれども、法華経、涅槃業を修行して、仏にならないわけがない。今まで仏と言われる方々は皆、この教えに従って仏になっている。法華経さえ読んでさえいれば、もう満足しきって、他に読む必要はないくらいだ。
自分たちの器量ではこの法華経を読んでもなかなか理解できない。その理由は、法華経は菩薩声聞といった非常に智慧のある者しか解読しきれないので、私たちはあえて今、この法華経を勉強するのはやめておきましょう。
曹洞宗 宗祖 道元禅師
余経中の説をきたして法華経に比較したてまつらん、これ逆なるべし。
法華の功徳力をかうぶざれば、余経あるべからず。
余経はみな法華に帰投したてまつらんことをまつなり。
この法華経のなかにいまの説まします。しるべし三宝の功徳まさに最尊なり、最上なりということを。
(現代語訳)
いろいろな教えがある中で、法華経と比べてどうかなど、比べることはできない。法華経の力があれば、他のものはもう無くてもいい。
臨済宗 中興の祖 白隠禅師
今日より思い立ちて、憂きにつけつらきにつけ、悲しきにつけ嬉しきにつけ、寝ても覚めても、起っても居ても、只菅に法華の首題を南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と間もなく唱えらるべし。此の首題を杖にも力にもして、是非とも法華真の面目を見届くべしと深く望みをかけて唱へらるべし。願わくば出づる息・入る息を題目にしてほしき事よと、随分親切に断間もなく唱へらるべし。唱へ唱へて怠らずんば、久しからずして心性たしかに、大石などを淘り居ゑたる如くにして、安生不動、須彌山の心地はほのかに覚えあるべし。
(現代語訳)
普段の呼吸のように「南無妙法蓮華経」とただ唱えるだけで、それが杖にも力にもなるので、唱えてほしい
時宗 宗祖 一遍上人
吹く風 立つ波の音までも 法華経に非ずということなし
(現代語訳)
この世に起こる万物の現象というものは、すべて法華経に書いてあるんだ。
まとめ
いかがだったでしょうか。
日蓮宗ではない宗派は「妙法蓮華経」を信仰していないと勘違いしていました。
よくよく調べると「妙法蓮華経」のその内容は深淵なので、ある程度のレベルがある人でないと読んでも理解できないようです。
よし!妙法蓮華経!勉強頑張るぞ!
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